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赤間関時代

医療・教育関係の方へ
2012年4月1日 更新
下関市は、明治22年(1889)に、全国の31都市と共に市政を施行した。当時は赤間関市と称した。
コレラの大流行があった時代であり、明治19年(1886)に、仮設僻病院(彦島字船島、今の巌流島)に、これらの患者を隔離した記録がある。

 明治22年(1889)4月、第一回市議会員選挙が行われ、初代市長に伊藤房次郎が就任した。
そして基本的な規則が定められたが、その中に市医規則が盛り込まれ、10月24日に議決されている。
規則によれば、市医は2名で、市中の開業医の中から市参事会が選考して任命し、任期は2年であった。

市医の職務は、
  • 地方病および伝染病に関すること。
  • 医者にかかっていない病人、死人または変死などの検診。
  • 種痘施行に関すること。
  • 市内火災のうち現場に出張、負傷者医療に従事すること。
  • 窮民医療に従事すること。
  • 市内衛生上に関し、その意見を市長もしくは市参事会に報告する。
となっている。

 明治24年(1891)8月27日の市議会において、コレラ病予防臨時費900円の支出が上程されているが、コレラが流行しても、参事会において、検疫医選定を医師会の推薦を得て行っていなかったり、また、辞退があったりして難しい問題であった。
このように伝染病に対して、かなり神経質になっていたことがわかる。明治25年(1892)に、赤間関測候所ができて、天気予報が開始され、また、翌明治26年(1893)10月に、日本銀行西部支店ができた。
日清戦争が明治27年(1894)に勃発し、世の中は戦争時代に突入した。翌明治28年(1895)3月、春帆楼で日清講和条約が締結され、日清戦争は終結した。明治31年(1898)に電話交換局が開設され、電話ができるようになった。明治33年(1900)に、市に衛生技師が、市内の開業医から選任されて置かれているが、人数は一人で、兼業の医師では職務が不十分なため、専任の医師を置きたい意向があった。
市立高尾病院(市立中央病院の前身)は、このような時代に誕生することになった。

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