市立高尾病院(上田中町高尾)の時代

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2012年4月1日 更新

 高尾病院は、伝染病院として、明治34年(1901)10月28日に完成し、患者の自宅において、隔離できないものを収容するために設置された。
これが市立中央病院の始まりである。当時、職員は院長1名、医師若干名、調剤師若干名、事務員若干名、看護婦若干名で、収容患者より徴収する薬価は、1日分8銭であった。
 同年5月に、山陽線神戸赤間関間全線が開通(現山陽本線)して、馬関駅も開業、9月には、英国領事館も開設された。
明治35年(1902)6月に、市名を下関市と改称した。明治37年(1904)、日露戦争が勃発、乃木希典指令官がひきいる旅順攻撃で6万の将兵が戦死した年でもある。明治39年(1906)に、水道が使えるようになり、また長州鉄道(現山陰本線)が開通した。
明治41年(1908)に、下関市の新市庁舎が完成した。伊藤博文首相暗殺の年でもある。翌年市章ができた。
明治43年(1910)は、日韓合併の年、明治44年(1911)4月には、ガスが使えるようになった。
明治45年(1912)に、中華民国が成立し、国内では、7月明治天皇崩御、大正天皇が即位、大正時代となった。
市内にはバスが走りだし、下関衛生試験所が開設された。

 大正3年(1914)に第一次世界大戦が始まり、日本も参戦、ロシアでは3月革命と世界情勢が大きく変化した。
大正9年(1920)に国際連盟に加入、翌年原敬首相の暗殺と激動の時代が続いた。大正12年(1923)9月1日には、関東大震災があった。
大正天皇が、大正15年(1926)に崩御され昭和天皇が即位された。同年4月に、市立高尾病院は改築されたが、工事費は、本体、設備費、通路改善費などを含め、総計254,192円であり、その規模は、鉄筋コンクリート二階建で、3病練あり、職員は、常時64名、非常時82名であった。
街には路面電車が走りだし、労働組合もこの年にできた。昭和の初期は、金融恐慌の時代でもあり、昭和6年(1931)には、満州事変がおこった。
当市では、松井信助市長(12代)が就任した。翌年上海事件がおこり、日本は軍国主義化した。また2月にはラジオ放送が始まった。

 昭和8年(1933)5月、下関市立診療所を併設した。市立高尾病院の建物の一部(本館階上予備室外3室、約92m2)を使用して、一般疾病に対する診療所を開設した。これが高尾病院内に一般の診療部門ができた最初のものである。そして、その開設の趣旨によると、「本市在住の中産階級以下の利便を図るため」とあり、いずれにしても、伝染病を主とし、一般診療を従とした診療体制であった。

 同年には、山陰線が全線J通し、市では唐戸市場ができ、また、彦島町を合併した。昭和9年(1934)、ドイツでは、ヒットラー総統が就任し、国内では、昭和11年(1936)に2.26事件がおこり、軍部が台頭してきた。

 当時、市立高尾病院には、次のような分院が存在した。

高尾病院彦島分院(開設時の所在地、彦島字本村長崎)
 大正11年(1922)9月、従来の彦島町立長崎病院を改築して伝染病院を開設した。建築費総計57,021円66銭、収容力は、常時32名、非常時34名だった。下関市との合併により、高尾病院彦島分院となったが昭和18年(1943)に閉鎖された。

市立診療所彦島分院
 彦島住民の希望により、昭和11年(1936)7月から、彦島分院内に一般疾病の診療を開始したが、彦島分院の閉鎖に伴い一般診療も中止となった。

高尾病院長府分院(豊浦村字蹄)
 明治35年(1902)3月、長府町立伝染病院として開設されたが、昭和12年(1937)3月27日、下関市に合併と共に高尾病院長府分院と改称した。
収容力は常時14名、非常時17名で、病室は14室であった。

市立診療所長府分院(豊浦村字中浜町)
 長府住民の熱望により、元豊浦警察署の建物を改造して、昭和14年(1939)2月8日から一般疾病の診療を開始した。

高尾病院小月分院(小月町字宮ノ尾)
 明治30年(1897)3月、伝染病隔離病舎を建設したが、建物が狭く、明治36年(1903)1月11日に改築して開設、昭和14年(1939)5月17日に、下関市と合併により、高尾病院小月分院と改称した。収容力は、常時4名、非常時9名で、病室は9室であった。

高尾病院清末分院(清末字清末)
 明治35年(1902)2月28日開設、当初は、伝染病隔離病舎としてスタートしたが、昭和9年(1934)8月に伝染病院と改称し、更に、昭和14年(1939)5月17日下関市との合併により、高尾病院清末分院と改称した。収容力は、常時7名、非常時14名、病室は10室であったが、同年7月に閉鎖された。

 日華事変が昭和12年(1937)7月7日におこり、昭和14年(1939)には、第二次世界大戦が、昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争が勃発した。下関市報もこの時より発刊された。関門鉄道トンネルの下り線が昭和17年(1942)に開通して、下関駅も西細江より現在駅に移転した。昭和19年(1944)に関門鉄道トンネルは複線化して完成したが、ミッドウエイ海戦で日本海軍の敗北後、東京の大空襲、関門、北九州の初空襲があり、昭和20年(1945)6月29日と7月2日の2回にわたる下関の大空襲で、下関市は壊滅、死者324名、負傷者1,059名、被災建物10,168件、被災人口46,408名であった。

 山口県立保健所は、昭和12年(1937)に、逓信省簡易保険事業の付属施設として唐戸町に開設され、昭和19年(1944)には、三百目の逓信省所管の相談所を統合して、山口県立下関保健所と改称した。

 下関陸軍病院(現国立下関病院)は、明治24年(1891)赤間関病院として、下関要塞砲兵第四連隊内に設置され、明治27年(1894)下関要塞病院と、同39年(1906)に衛戌病院、更に、昭和11年(1936)11月に下関陸軍病院と順次改称された。戦後、厚生省に移管されて、国立下関病院として再発足するが、昭和20年(1945)12月から外地引き揚げ者関係の収容病院として利用された。

終戦

 昭和20年(1945)8月15日に日本は降伏して終戦となる。10月には、米海兵隊(400名)が下関に進駐した。

 第一回目の市長公選で、昭和22年(1947)4月、松尾守治市長(21代)が就任した。7月に下関復興港祭り(後のみなと祭り)が開催された。

 同年8月に下関市立診療所を市立病院に改めた。医師は5名であった。12月に天皇の下関市への行幸があり、興安丸に宿泊されたという。

 昭和23年(1948)6月、日本医療団下関病院(昭和17年に発布された日本医療団令に基づいて開設され、下関では、小倉記念病院下関分院-野瀬善三院長-として、市内新町に設立)を市が買収し、下関市立病院として発足した。


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