下関市立中央病院の誕生-前半

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2012年4月1日 更新

〈初代院長常松順介の時代〉

 韓国、北朝鮮の独立、朝鮮動乱が始まろうとしていた時代の昭和25年(1950)1月に、初代の院長として、常松順介が就任した。
同年3月20日に、下関市立高尾病院、下関市立診療所、下関市立病院を統合して、新しく『下関市立中央病院』として発足した。
病床数は一般53床、結核51床、伝染病50床、医師9名であった。従って、下関市立病院は、下関市立中央病院付属新町診療所と改称した。
新町診療所の病床数は13床であった。下関市立中央病院の診療科目は内科、小児科、外科、皮膚科、泌尿器科、産科、婦人科、歯科、放射線科、と眼科であった。同年6月に、長府診療所を設置し、また、中央病院に10月、耳鼻咽喉科を新設した。

 当時、市立中央病院には、次のような付属施設があった。

新町分院(現在の下関市立図書館用地)

 昭和25年(1950)、市立中央病院付属新町診療所(13床)、昭和33年(1958)に増設し30床、昭和35年(1960)に改築して2病棟完成、しかし、昭和41年(1966)3月に廃止された。

長府診療所(18床)

 昭和25年6月設置、昭和31年(1956)に廃止された。

小月診療所

 昭和23年(1948)6月に市立診療所小月分院として開設、昭和25年に、市立中央病院の発足で、小月診療所(14床)となり、昭和29年(1954)12月に廃止された。

弟子待仮診療所

 昭和26年(1951)4月に開設、昭和28年(1953)3月に廃止された。

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〈第2代浜崎邦夫院長の時代〉

 市立高尾病院と称されていた時代は、専ら、伝染病の隔離施設であった。
即ち、腸チフス、赤痢、コレラなどの伝染病に対応したもので、結核も同じく伝染病であり、昭和25年当時、伝染病50床、結核51床であったことからもわかる。
このような時代に、第2代浜崎邦夫院長が、昭和26年(1951)1月に就任した。

 亡国病といわれた結核も、戦後新薬の発明や栄養の改善もなされて、漸次減少していった。昭和27年(1952)2月1日付けの市報にも、「年々減る下関市の結核死亡率」とあるように、結核死亡者は、昭和24年329名、昭和25年294名、昭和26年284名となっている。
また、「山口県の結核指定区域から除外されることとなった」とある。
従って、隔離を主としていた弟子待診療所、小月診療所および長府診療所が、昭和26年から昭和31年にかけて廃止された。

 新町分院は長く続いて、昭和33年(1958)1月に、前述のように、増床(30床)し、基準給食を実施、同年10月には、医師3名、看護婦11名となった。
昭和35年(1960)3月には、改築(2病棟)して、更に充実し、同年7月に、本院とともに、保険医療機関指定も受け、基準看護1類に変更している。
当時国内では、自衛隊が発足し、第5福竜丸被爆事件があり、市では、新市庁舎が完成し、吉母、王喜、内日などを合併し現在の下関市が誕生した。
昭和31年(1956)に日ソ国交回復、日本の国連加盟、昭和33年(1958)3月には、関門国道トンネルが開通した。
4月は人工衛星の打ち上げ、1万円札が発行されるなどで驚いた時であった。昭和36年(1961)3月、本院は本格的に増改築されて、旧中央病院(向洋町2丁目)が新病院になった。病床数190床(分院30床)、結核51床、伝染病53床、であった。

旧中央病院

 8月には、基準看護1類(結核は2類)に変更した。また、国民皆保険制度が発足した年でもある。
市では11月に関釜定期航路が再開された。当時の下関市の人口は25万人であった。

 昭和37年(1962)4月に、結核病床を7床減床し44床とし、病院の経営も地方公営企業法の一部適用となった。
保険医療の一環として、短期人間ドックを開始したり、経営の安定化も図るなどして、医療の充実が認められて、昭和38年(1963)1月に、県から総合病院の名称の使用が認められた。

 当時の市長は木下友敬市長(24代)であった。下関商業高校が春の選抜高校野球大会で優勝した。
また、ケネディ米国大統領が暗殺されて一大ニュースとなった。4月に耳鼻咽喉科と眼科が身体障害者福祉法に基づく指定を受け、11月に診療および公衆衛生に関する実施修練病院の指定を受けた。

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〈第3代亀田五郎院長の時代〉

 昭和39年(1964)4月に、第3代亀田五郎院長が就任した。
事務局長は上野善次、総婦長は内海アヤ子であった。亀田五郎院長は吉母のお生まれであるが、戦国時代、山陰の雄、尼子氏に仕えたお家柄で、その所為か、古武士然とした厳しさがあったが、心根の優しい先生であった。
剣道七段範士、居合道六段の猛者でもあり、戦時中は南方戦線で弾丸飛び交う中で、軍医として奉職された。

 住居表示制度が実施され、戦後日本では初めての東京オリンピックが開催された。それに伴って、山陽線の全線電化、東海道新幹線開業などがあり、関門連絡船は10月31日をもって廃止されて淋しくなった。
 昭和40年(1965)1月に救急告示病院制度が発足して、当院も2月には、救急専用優先病床10床を設けて、救急病院の指定を受けた。それで、一般病床304床、結核36床、伝染病53床、合計393床(76床増)となった。この年に、アメリカは北ベトナム爆撃を開始した。昭和41年(1966)3月に、新町分院は廃止され長い歴史を閉じた。

 市では、5月に衛生都市宣言をし、大韓民国領事館を開設した。健康保険法による基準寝具の実施の承認を受けた。日本経済、産業の発展は著しく、神武景気の到来も手伝って、病院も再び、大規模な増改築をすることになった。整形外科のリハビリテーション施設を充実すると同時に高度医療機器を導入して、昭和42年(1967)3月に新館150床(改築74床、増築76床)が完成、4月には、消化器科、循環器科、脳神経外科の3科を新設した。
また、9月に、上田中町医師公舎(16戸)も完成した。

上田中町医師公舎

 当時の市長は、第25代井川克己市長であった。翌昭和43年(1968)に、市制80周年記念式典が行われ、下関市民憲章が制定された。10月には、上田中町公舎の下に、下関図書館もオープンした。

 昭和44年(1969)6月、人工腎臓室が完成して、人工透析を開始した。昭和45年(1970)は、小生(赤尾)にとって忘れ得ない年である。2月九州大学医学部第一外科より、心臓血管外科を新設する準備のため外科医師として赴任したのである。
 当時のスタッフをみると、亀田五郎院長(内科)、四宮衛副院長(外科)、古川宏(産婦人科)、大淵晃(小児科)、松尾栄一(外科)、岡圭二(耳鼻科)、徳永正晴(外科、前院長)、中野雅利(産婦人科)、森文信(内科、前副院長)、太田敏郎(内科)、橘寛(整形外科)、西川良平(内科)、久保田茂臣(内科)、新井亨(泌尿器科)、渡辺信之(外科)、前田日出三(内科)、橋本操(小児科)、蒲池真澄(外科)、長見智世子(歯科)の諸先生、平山義光技師長、浅田茂昭、中村博行、渡辺恒雄、金山三郎、荒木正俊技師、赤木美枝子総婦長、羽仁エミ副総婦長、野村ツネ、槙野英子、糸野テツ子、永富和子、村上睦子婦長、阿川初恵助産婦、角田佳子、山路千恵子、伊藤良江、林和子、伊藤昭江、新谷起和子、山本秋子、片岡和子、完田靖子、溝内早智子看護婦、松崎久男薬局長、残間愛子、綿光智恵子薬剤師、白井健司事務局長、伊田義信次長、兵庫忠義次長補佐、福沢勇介、仙石敏彦、木村茂、山口和枝係長、宇田ヨリ子、浜岡信彦主事、今永洋一技師補、隅川喜子栄養士、酒田仂調理手、植野寿男運転手らの姿があった。

また、この年には、火の山に国民宿舎「海関荘」がオープンした。下関市の人口は263,536人であった。
その他、大阪万博、フェリー関釜の就航など産業の発達も目覚ましいものがあった。

大学町医師公舎

 昭和46年(1971)3月に、大学町医師公舎(8戸)が完成、4月には、呼吸器科、神経精神科、理学診療科の3科を新設して19科となった。10月に、市はブラジル、サントス市と姉妹都市盟約を調印したが、これが市の国際化の第一歩であった。長く市民の足であり、親しまれていた路面電車が全面廃止され、バスが主流の交通機関となった。

 昭和47年(1972)5月、健康保険法による基準看護特類の承認を受け、また、癌や心臓病の診断に威力を発揮するX線連続撮影装置や心臓手術に必要な人工心肺装置、高度な検査が多種類同時に自動的にできる装置オートアナライザーなどを導入した。市では、同年2月に、トルコ、イスタンブール市と姉妹都市盟約を結んだ。

 また、下関地区広域消防本部も発足した。翌昭和48年(1973)11月、関門橋の完成で下関小月間の中国縦貫道が開通し、高速自動車道時代の幕開けとなった。ベトナム戦争も、和平協定が成立したが、アメリカは事実上の敗北で、苦渋の時代に突入した。

 昭和49年(1974)7月に、外科病棟が2単位制、9月には、内科病棟が2単位制を実施して、看護体制を充実した。また、隣接する向洋町2丁目10-53を病院用地として取得した。昭和50年(1975)は、腫瘍治療を目的とした治療器械リニアック施設を、同年2月には、院内保育所(にこにこ保育園)を開設して、職員の子弟を日中預かって、安心して仕事ができる体制をとった。
 これは、県下では初めてのことであった。健康保険法による基準看護甲表特2類の承認を4月に受け、より一層の看護体制の充実を計った。診療科目も神経精神科を、神経科と精神科とに分けて、20科となった。同年9月、彦島大橋完成、新幹線も博多まで開通した。当時の下関市の人口は、266,595人であった。

 昭和51年(1976)4月現在、当院の医師は30名、医療技師34名、看護婦195名、事務50名、合計309名で、病棟は2-8体制であった。市では、同年5月に、社会福祉センターが開設され、10月には、釜山市と姉妹都市提携が成立した。

 昭和52年(1977)4月、看護婦5名、技師1名の増員で合計315名の職員となった。市では、5月に、市民会館が開館したが、1532席の大ホール、と400席の中ホールが設けられて、市の文化活動の充実がなされた。また、10月には、大型店舗「シーモール下関」がオープンした。
 この年は、連合赤軍の日航機ハイジャック事件などあり、紙面を大いに賑わせたが、この頃より、救急医療が重視されはじめ、山口県救急医療対策協議会(現山口県医療対策協議会)が設置された。昭和53年(1978)3月、岬之町埠頭埋め立て工事が完成して、大型船の発着が可能となり、第一回の「馬関まつり」が開催された。当時は、亀田五郎院長、四宮衛副院長、林和子総婦長、坂田幸守事務局長らがスタッフであった。

 昭和54年(1979)3月、呼吸器外科、心臓血管外科と小児外科の3科を新設して、合計23科となった。
泉田芳次市長が就任して、4月に市制90周年の記念行事が行われ、10月には、中国、青島市と友好都市提携がなされた。
 昭和56年(1981)1月に、結核病床36床が一般病床に転床され、長く続いた結核病床がとうとう終焉を迎えた。7月には、特定病床15床が承認された。市では、9月に、勤労福祉会館と勤労者体育センタ一、また、秋根町に消防訓練センターが開設された。

 昭和57年(1982)4月、保健福祉の充実を図るため、身体障害者福祉センターが貴船町に、また、県では、山口県肺ガン対策委員会が設置された。南米では、フォークランド紛争がおこっていた。
 昭和58年(1983)2月に、老人保健法が制定されて、健康手帳が交付された。当院では、全身用コンピュータ一断層撮影装置(CT)を導入した。これにより、画像診断が一層確実になってきた。
 しかし、このように病院設備が拡充したことにより、狭隘となり、また、建物の老朽化、交通の不便さなどから、新病院建設の計画がされるようになった。
亀田五郎院長は、市当局との折衝に力を注ぎ、昭和59年(1984)5月に、移転改築に係わる新病院開設許可(一般430床、伝染病30床)を得て、移転先は市営球場跡地と決定された。
 その時のスローガンは、24時間体制の救急病院であること、高度医療、急性疾患をみる病院であること、また、患者さんとの温かい心の触れ合いの中で、質の高い医療を提供することであった。新病院建設連絡協議会が結成され、病院建設計画室が置かれていた。昭和39年(1964)以来20年間、病院長として、当院の発展に心血を注いでこられた亀田五郎院長が、昭和60年(1985)3月に退職して、4月より名誉院長に就任した。


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