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下関市立中央病院の誕生-後半

医療・教育関係の方へ
2012年4月1日 更新

〈第4代四宮衛院長の時代〉

 四宮衛院長は、亀田五郎名誉院長が第三代院長に就任して以来、名副院長として、二人三脚で長く院長を助け、病院の運営と発展に大いに寄与した。そして、昭和60年(1985)4月に、院長に就任した。

 四宮衛院長は、戦前、満州医科大学に在学中に終戦となり、大変ご苦労をして帰国し、九州大学医学部を卒業、第一外科に入局、昭和31年(1956)10月より当院に就職された。学生時代より、器械体操、剣道で鍛えた体はガッチリとしていて、いつも勉強を欠かさず、博識の外科医であった。新病院の建設並びに休診をしないで新病院に移転する方法などに努力された姿が、今も忘れられない。

 翌昭和61年(1986)3月、新病院建設の起工式があり、総工費約101億円、地下一階、地上六階の建物で、延べ床面積は26,000m2、病床数460床で、昭和63年(1988)3月に完成した。新病院の建設目的にもあったように、24時間対応の救急体制をとり、市民に対して、救急センターとしての役割を担うとともに、下関医療圏において、より質の高い医療を提供する中核病院としての役割を果たすことであった。
新中央病院
 旧病院から新病院への患者移送を含めた移転は、入院患者さんの生命の安全性を鑑み、懸命な努力が行われた。モニター類の稼動中の移送や、入院患者さんの給食の連続性など、診療の中断は許されない。幾度もシミュレーションをしていたとはいえ、約300名の入院患者さんの移転の難しさが改めて現実的となった時であった。

 当時のスタッフは、四宮衛院長はじめ、大淵晃(小児科)、松尾栄一(外科)、岡圭二(耳鼻科)、徳永正晴(外科)、森文信(内科)、岡田楷夫(内科)、赤尾元一(外科)、久保田茂臣(内科)、呉達夫(外科)、永田良隆(小児科)、伊藤正治(脳外科)、原田康平(内科)、名和田順介(内科)、城戸正詩(整形外科)、浴村正治(内科)、安井平造(泌尿器科)、入学陽一(歯科)、海江田令次(麻酔科)、永山和彦(病理)らの諸先生と浅田茂昭放射線技師長、鈴木高明技師長、窪田香二薬局長、林和子総婦長、伊藤昭江副総婦長、角田佳子、山路千恵子、糸野テツ子、村上睦子、伊藤良江、片岡和子、上野香代子、完田靖子、越智和子婦長らの看護婦や、友田英喜事務局長、窪瀬龍雄次長、荒川敏章主査、大下利昭、中室静夫、浜本忠雄、入江和好、村田治夫係長、給食の隅川喜子係長等とともに、この時、病院建設計画室があり、三原勇次室長、臼井豊課長(建築課長兼務)や三ケ尻孝(建築課主幹兼務)、黒瀬孝志主幹らの姿があった。

 市では、この4月、5月は、源平800年祭ということもあり、第1回維新海峡ウオークや、第1回しものせき海峡まつりなどが開催された。また、ソ連では、チェリノブイリ原発事故がおこり、放射線汚染による障害が世界を震撼させた。
 昭和62年(1987)4月に、山口県成人病検診管理協議会が発足して、肺癌、乳癌や大腸癌の検診が正式にスタートした。

 昭和63年(1988)3月に、新下関市立中央病院(一般病床430床、伝染病床30床)が完成し、まずは、一般病床377床、伝染病床30床でオープンした。同年5月、下関港国際ターミナルも完成し、関釜フェリーの発着場が近代化した。また、7月に、新下関球場が、北運動公園に完成した。昭和64年(1989)1月、昭和天皇が崩御され、平成元年となった。

〈第五代徳永正晴院長の時代〉

 平成元年(1989)4月に、四宮衛院長の後任として、徳永正晴院長が就任した。
同院長は、山口県立医科大学を卒業後、九州大学医学部第一外科に昭和30年(1955)に入局され、麻酔科で博士号を取得後、昭和35年(1960)6月に当院に就職された。亀田五郎名誉院長や四宮衛前院長とともに、病院の発展、拡充に寄与してこられた。また、その豊富な経験と本来のアグレッシブな行動から、下関医療圏の中核病院としての確固たる地位を確立させた。
 新病院開院時に一時閉鎖していた53床の病床もオープンした。また、6月には、外来患者さんの待ち時間の短縮を目的に、まず、内科外来の予約制を実施した。8月から、将来、診療所や他の医療機関との連携をより緊密にして、ともに学び、地域医療に積極的に貢献するために、登録医制度を実施した。

 9月には、基準看護の特3類(一般6棟、212床)、特2類(一般6棟、248床)が承認された。国の方では、政官癒着のリクルート事件がおこり、また、消費税が導入された。11月に、注目のベルリンの壁が崩壊して、東西ドイツの統一化が進んだ年でもあった。
 7月現在のスタッフは、徳永正晴院長、森文信副院長、松尾栄一外科部長、岡田楷夫内科部長、岡圭二(耳鼻科)、赤尾元一(外科)、呉達夫(外科)、谷村晃(病理)、永田良隆(小児科)、伊藤正治(脳外科)、原田康平(内科)、城戸正詩(整形外科)、安井平造(泌尿器科)、浴村正治(内科)、大北泰夫(内科)、吉利用和(心臓血管外科)、林田功(内科)、野田敏剛(内科)、入学陽一(歯科)、中野英一(心臓血管外科)、福留健一(外科)、長岡栄(放射線科)、住友健三(小児外科)、門裕二(内科)、坂井尚二(腎臓内科)、竹中晃司(外科)、末永眞次(小児科)、内田寛(皮膚科)、藤原義樹(麻酔科)、森本哲也(整形外科)、水町宗治(内科)医長らと、林和子総婦長、伊藤昭江副総婦長以下、越智和子、金子操、山本秋子、伊藤良江、山路千恵子、片岡和子、完田靖子、上野香代子、大下美智子、阿川初恵、下野眞津恵、沼井律子、植野悦子、羽仁笑子、野上都子婦長らと、浅田茂昭放射線技師長、鈴木高明技師長、窪田香二薬局長、隅川喜子主査(栄養管理部)、岩本春男事務局長、田中稔次長、河野和平課長、荒川敏章主幹、久保毅課長、村田治夫、田上忠主査らであった。

 平成2年(1990)7月に、内科に続いて、外科、整形外科の予約診療制を実施した。平成3年(1991)1月に、下関市在住の古川薫氏が「漂白のアリア」で直木賞を受賞した。また、湾岸戦争(アメリカのイラク爆撃)の勃発、雲仙普賢岳の噴火、ソ連の崩壊など、いろいろなことがあり、市では、日韓高速艇ジェットライナーが7月に就航している。

 平成4年(1992)4月、研修医室の確保、指導医の拡充、臨床研修プログラムの完成、給与などの費用の確保など様々の準備を行った結果、臨床研修病院に指定された。山口県下では、山口大学付属病院、山口県立中央病院、国立岩田病院と国立下関病院に次いでである。最大募集人数は10名で、これによって、教育病院としての資格を得たことになった。6月に、基準看護特3類265床、特2類195床の変更が認められた。また、10月に、外来全科予約診療制にした。この頃から、官公庁が、週休二日制を推進しており、平成5年(1993)4月から、当院も週休二日制を導入した。それで、診療体制も大幅に変わって、救急体制の整備充実が検討され、当直は、医師は内科系1名、外科系1名、ICU1名の3名体制で、看護婦は3名(当直2名十準夜1と深夜1名)、当直婦長1名、放射線技師1名、検査技師1名が毎日泊まっており、休日は、これに手術室の看護婦が2名(オンコール体制)、薬剤部は、休日に1名交代で日勤とした。また、一泊二日の人間ドックの空床の有効利用から、7月から市内ホテルと契約して、人間ドック受診者のホテル宿泊を実施した。また、高規格救急自動車が中央消防署に配備され、運行を開始、アメリカでは、2月にクリントン大統領が就任した年である。平成6年(1994)は、4月に羽田内閣成立、7月に北朝鮮の金日成主席が死去、年末、村山連立内閣成立、オウム真理教の松本サリン事件の発生などがあった。

 平成7年(1995)6月、新看護(2対1看護A)体制を実施し、全病棟11棟、460床が承認された。また、7月には、入院時食事療養特別管理加算を適用し、国の政策に沿った診療を行い、病院の経営の向上に努めた。同年1月に、阪神淡路大震災がおこり、改めて、防災対策の見直しが、国、県、市ごとになされるようになった。救急救命士も7名誕生し、高規格救急車も増えて、市の救急体制は充実してきたが、受入れ病院の体制は、人、設備、財政共に不十分であり拡充が必要となっている。また、この年の1月に地下鉄サリン事件が発生した記憶は新しい。

 平成8年(1996)1月、下関市訪問看護ステーションが開設され、在宅医療に貢献できる体制ができた。3月に、これまで病院の発展に7年間、院長としてまた地域医療の拡充や自治体病院協議会、日本病院会の役員として責任を果たしてこられた徳永正晴院長が退職された。その多くのご功績に、改めて感謝している次第である。また、これと同時に、徳永正晴院長と苦労をともにしてきた久岡恕事務局長、窪田香二薬局長、笹井孝明放射線技師長と伊藤良江婦長が定年退職となり、病院として一度に大きな穴があいた感じであった。

〈第六代赤尾元一院長の時代〉

 平成8年(1996)4月徳永正晴前院長の後任として、赤尾元一(小生)が第六代院長として就任した。
大きな責任を感じている。先輩院長の意思をつぎ、この厳しい医療環境の中で、地域医療の中核病院として、先進的高度医療を推進したい。当院は、臨床研修病院として24時間体制の救急医療と医師、地域医師、看護婦をはじめコメディカルの方々をも含めた教育機能の一層の充実を図りたい。そして、職員すべてが、患者さんとの温かい心の触れ合いの中で、質の高い医療を提供していく、また、看護体制をはじめとして療養環境も充実させていく方針である。

 6月に、青島市市立医院との友好病院提携後初めての、本格的研修が、当院、心臓血管外科および循環器内科グループが担当して行われた。来院された宗文宣副教授と何宝亮副主任医師にいろいろ勉強し、経験して頂いたが、お二人とも満足して帰国された。これによって、青島市市立医院との友好の絆が一層強くなったと確信している。7月に、MR、CT棟が完成し、最新のへリカルCTと高速MRlが稼働した。画像診断の確実性と効率化が増し、これに付随して、脳ドックと肺がんドックを新設した。夏には、O‐157腸管出血性大腸菌感染症の集団発生事件、非加熱血液製剤によるHlV感染症が問題となり、当院もその対応に多忙であった。前者では、院内感染はなく、後者でも、非加熱製剤の使用はなかった。アトランタオリンピックに湧いた秋、第二次橋本内閣誕生、厚生省官僚の汚職事件などで一年が終わった。

 平成8年(1996)6月1日現在のスタッフは、亀田五郎名誉院長(内科)、赤尾元一院長(外科)、岡田楷夫副院長(内科)、伊藤正治副院長(脳神経外科)、谷村晃(病理)、永田良隆(小児科)、松尾憲一(外科)、安井平造(泌尿器科)、浴村正治(呼吸器内科)、吉利用和(心臓血管外科)各部長、入学陽一(歯科、歯科口腔外科)、池田真一(外科)、長岡栄(放射線科)、住友健一(小児外科)、井町正士(産婦人科)、岡村秀樹(血液内科)、坂井尚二(腎臓内科)、真弓武仁(内科)、津村弘(整形外科)、吉田順一(呼吸器外科)、藤原義樹(麻酔科)、末永眞次(小児科)、内田寛(皮膚科)、酒井順雄(循環器内科)、水町宗治(消化器内科)、坂本真人(心臓血管外科)、吉開俊一(脳神経外科)、辻ゆかり(循環器内科)、白石明彦(循環器内科)、西村明大(外科)、新里裕一(耳鼻咽喉科)、本間穣(放射線科)、前田健(整形外科)、山崎隆弘(消化器内科)、宮房成一(整形外科)、中村久美子(麻酔科)、西川英一(放射線科)、高比良健市(眼科)、背戸山景子(麻酔科)各医長、片山浩太郎放射線部技師長、荒木正俊検査部技師長、谷口正則主査、阿武英晴薬局長心得、隅川喜子栄養管理部主査、林和子総婦長、上野香代子副総婦長、完田靖子副総婦長、山本秋子、羽仁笑子、大下美智子、阿川初恵、下野眞津恵、野上都子、沼井律子、八垣悦子、室井由美子、近藤裕子、吉田鎮子、中野資恵、国武邦子、戸井小夜子の各婦長、浜岡信彦事務局長、隅田正登庶務課長、益田英昭課長補佐、町田博俊、猪熊泰三各主査、伊賀宏之係長、大野七郎医事課長、二川忠課長補佐、尾山幸雄主査、西岡輝昭係長らである。
 今年の平成9年(1997)は、4月に医療法の改正が行われる予定であり、患者負担が大幅に増額されようとしている。総合病院の名称も、地域医療支援病院となりそうであり、第三者病院機能評価制度が実行され、高齢化社会への突入もあり、公的介護保険の導入も近い、社会経済は低迷、固定化の現状で、国も財源がなく、財政構造改革を積極的に検討している。
 このような社会情勢の中での当院の経営は、ますます厳しくなることが予測されるが、医療人として、患者さん本位の血の通った温かい医療を懸命に行っていけば、必ず立派な、市民に信頼される病院になると思う。2月には、今まで理学診療科と呼ばれていたものがリハビリテーション科と名称が変更となり、歯科が、歯科と歯科口腔外科と分かれて、合計24科となった。
 阪神淡路大地震以来、国、県、市ともに防災対策に力をいれ、近々、県から災害拠点病院の指定を受ける予定であり、また、二次医療圏における救命救急センターの指定も受けるべく山口県を通して厚生省と協議中である。将来、病診連携や医療の向上を目指した地域医療研修センターの建設、外来患者の受入れの増加およびプライバシーの保護に対処するため、外来棟の増築や、トータルオーダリングシステムも情報化社会の到来で、積極的に取り入れていく方針で現在計画中である。


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